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生大喜利振り返り日記 -4(2012年 戦 ~ 関西大喜利団体対抗戦)

金曜深夜に「笑い飯の金曜お楽しみアワー」を聴いて、土曜は朝から5upよしもとへ「サードチャレンジ」を見に行く日々。駅へと歩きながら、前夜に発表された大喜利コーナー「とれとれ5本市場」のお題について考える習慣ができた。だが、年が明けてからも大喜利の答は全く読まれなかった。

 

尼神インターは「サードチャレンジ」に数か月の間出なくなり、復帰すると新ネタでどんどん勝ち上がり、劇場メンバーに定着した。

「サードチャレンジ」は好きな芸人さんだらけだったが、特に好きだったのはメルヘンロリータと、ピンのときから大好きだったポイズン反町さんが組んだマナティズだった。

「サードチャレンジ」は土曜の昼過ぎに終わる。どうしても眠たい日は、いったん家に帰って夕方からの仕事まで仮眠したが、たいていはお笑いライブをハシゴした。当時は5up内の受付そばにあった階段が開放されていて、そこから4階に下りた。ほとんどの人はジュンク堂の方に向かってそのまま帰るが、僕は4階の上方亭でライブを見た。いつも何かしらやっていた。赤毛芸人かいざさんとひたかつけんとさんのコンビ・コテンパン、「Ups大喜利ライブ」MCの中尾さんのコンビ・1(ワン)、「Ups大喜利ライブ」主催者の川嵜でし太さん(当時すみませんでしたさん)たちは特に数多く見た気がする。松竹時代の黒帯もいた。

「サードチャレンジ」と上方亭のライブを見てから昼ご飯を食べ、引き返して7階のレッスンルームに行くことが多かった。「オワラインスポッティング」とか印象強かったな。、(とうてん)さん(現独唱の塔天さん)が、今は宇宙女のおりいかえでさんとテディムソウというコンビを組んだりしていた。

 

そんなある日、上方亭ライブの後、いつものようにお笑いライブのチラシをチェックしていて、アマチュアの方々の大喜利イベントがあるのを知った。「戦 ~ 関西大喜利団体対抗戦2012」と書かれた、たしか白いシンプルなチラシだった気がする。大喜利のライブ、面白そう。プロとかアマとかは気にしない。それに何より、すり身さんの名前があった。すり身さんが大喜利するところが見れるなんて、興味津々だしありがたい。

 

こうして、GWの4月29日、僕は初めて味園ビルのスロープを上って、紅鶴に入った。味園ビルも紅鶴も噂には聞いていたが、アングラという感じだった。普段はほぼ使わない言葉なのに、アングラ! と思った。

紅鶴の前方に、左右に分かれて4つの大喜利団体が陣取り、代表選手が大喜利で対決する。大喜利鴨川杯、解の会、純豆腐の会、オオギリクレイジー。これが第1回の戦だったみたい。

僕は、誰かが回答するとき以外はすり身さんを見ていたと思う。笑い飯のラジオで全然読まれない自分に対して、すり身さんは毎週読まれている。しかも、「ケータイ大喜利」のレジェンドだ。僕の中ですり身さんは神格化されていた。

そんなすり身さんは意外にも、お題に対して考え込む場面もあった。みなさん仲がいいのだろう、すり身さんに対してガヤも飛んでいた。

あのすり身さんでも大喜利で悩むんだ。そう思うと、気持ちが楽になった。

この日の戦で印象的だった答は、藤川球児の歌を使った回答と、タクシーお題の「しゃべりかけません」

すり身さん以外でいちばん印象に残ったのは、不治ゲルゲさんだった。

 

戦を見て、「あのすり身さんでも悩むことがあるのだから、僕など苦戦して当然」と思うようになった。すると、すぐにラジオで大喜利の答が読まれた。半年ぶり2回目だ。それからは読まれることが増えていった。純粋な大喜利以外の、西田さんの人気コーナー「それ ねづっち」でも読まれ始めた。

 

相変わらず、お笑いなら何でも見に行った。最高だったのは、祇園花月で初体験したRGさんのあるあるライブだ。爆笑と感動。あれはすごい。

NSCを出た年の34期の曜日別47ライブにも通った。今でも34期の芸人さんを見ると、新人の頃のイメージが浮かぶ。

大喜利ライブで特筆すべきは、奥山ツンヂさん主催のチャリンチャリン大喜利。もみちゃんズ(現もみちゃん☆ズ)さんがレギュラーで、毎月通った。

ワッハ上方レッスンルームの「ぼくらのまなび舎」も、今も大喜利が強いと評判の芸人さんたちがそろっていて、好きだった。

 

笑い飯の金曜お楽しみアワー」以外にも、芸人さんの番組にときどきメールを送るようになった。

あの頃は吉本がニコ生にも力を入れていて、もみちゃんズさんの「もみちゃんねる」と うをともさんの「うをラヂヲ」には毎月メールを送っていた。

そんな2012年、戦で知った不治ゲルゲさんは、「ヤング・金属バットの結婚」というライブで、長渕剛の「乾杯」を歌い上げていた。